順念寺の歴史

順念寺の歴史
『新修大垣市史』によれば、留百山順念寺は文明三年(1471年)本願寺八世蓮如上人法子明専の創建と伝えられ、当時は宮町にありました。明治二十四年の濃尾大震災で焼失した同寺繍仏(文明年間)の裏書に「安八郡大井荘東大寺領大柿宮町」と書かれていたそうです。(一説にもとは東大寺と号し延宝五年(1677年)二月十五日現在の寺号順念寺に改められました) その後荒れはてましたが、万治元年(1658年)寺地を伝馬町に移し再興され、寛文四年(1664年)九月十三日順念寺の寺号を許可されました(禾森沼波家文書では「明暦二年(1656年)清閑が大垣伝馬街に順念寺を創建」と書かれているということです。順を追えば、1656年創建。58年本堂完成。64年寺号認可、ということでしょうか) 享保十七年(1732年)鋳造の鐘銘に「美濃国安八郡順念寺常住物也 願主随園建立之 享保十七壬子年三月中旬 冶工江州栗太郡辻村在 五位尉藤原朝臣田中平左衛門尉屋榮」と彫られていた由です。 享和二年(1802年)の調査によれば、寺域二百四十九坪、本堂東西六間南北五間半、鐘堂一間四尺八寸四方とありましたが、文化九年(1812年)三月朔日の岐阜町大火の際に本堂その他烏有に帰し、仮本堂庫裏などが建てられました。 明治十二年(1879年)の調査では、境内二百四十四坪、仮本堂縦四間三尺横四間、庫裏縦四間横六間、鐘楼縦二間横二間とあります。 明治二十四年(1891年)十月二十八日早朝、濃尾大震災直後の火災で焼失。明治二十五年十月仮本堂として、東近江長久寺村(現米原市)より民家を買受け、明治二十九年(1896年)仮本堂庫裏等が復築されました。つづいて明治三十四年一月鐘堂を建立しました。(濃尾大震災で残ったものは梵鐘のみと書かれています。これは太平洋戦争で供出されましたが、この梵鐘が享保十七年の梵鐘だったかどうかは不明です) 大正四年(1916年)縦七間半横五間半の本堂再建に着工。昭和十四年刊行の『内田仙司翁』(私家版。内田仙司は大工の棟梁・後述)という本には「順念寺本堂 大正四年(五十二歳)作 真宗大谷派、大垣別院の近くにあり、言はば別院の力作の連続と言ふべき物。」と説明されています。大正四年は工事請負契約成立の年で、大正八年の日付のある設計書も残っていますから、数年にわたって少しずつ造作が続けられたことがわかります。 この本堂、鐘堂は昭和二十年(1945年)七月二十九日の大垣空襲で焼失しました。焼け残った山門の一部だけ、六十年以上を経た現在でも当時のものが残っています。 その後長年のあいだ仮本堂でしたが、昭和六十三年(1988年)十月三十日現在の順念寺本堂の再建落慶法要を厳修しました。 寺領内に「明治二十一年 留百山順念寺第二十一世義静」と彫られた小さな自然石の墓があります。
(注) 内田仙司翁のこと。文久3年(1863年)揖斐郡小島村白樫に生まれる。現在の東本願寺御影堂を建立した棟梁・伊藤平左衛門の弟子。御影堂、皇居造営工事などに従事。その後大垣歩行町を拠点に、代表作の大垣別院をはじめ百近くの寺院本堂、鐘堂、山門、神社、小学校などを造るが大部分戦災で焼失。昭和八年没。

s

山号の由来

山号の由来
 順念寺の山号は「留百山」といいます。文類偈のなかに「特留此経住百歳(真宗聖典(P411)」という一行があり、そのもとは、仏説無量寿経巻下に「特留此経 止住百歳(どくるしきょう しじゅうひゃくさい…ことにこの経を留めて止住すること百歳せん)(P87)」と書かれており、そこからいただいて「留百山」と名付けられたようです。